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『加賀見山旧錦絵』編集後記~①脚本編~

 

1月初旬、前編と後編に分ける形で、古典浄瑠璃ボイスドラマ『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』を公開しました。

ここではその制作背景・裏話を書いていきます。

 

※作品のネタバレを含みますので、作品を聞いていただいてから読んで下さい。

 

●企画について

公開ページに書いている通り、今回のボイスドラマ『加賀見山旧錦絵』は元々江戸時代に書かれた浄瑠璃台本です。人形浄瑠璃や歌舞伎などで、今も上演され続けています。

(私が人形浄瑠璃文楽のファンなので、今回は文楽での加賀見山旧錦絵をイメージしています)

 

私がこの演目を人形浄瑠璃(文楽)で観たのは2年前の大阪初春公演のことでした。元々10年ほど前から文楽公演は年に数回観ていた私ですが、加賀見山旧錦絵は初めて観る作品。「観たことない演目だけど楽しめるかなぁ」と少し不安に感じていた私を、この作品は一気に物語の世界に引き込んでくれました。

草履打ちの段では尾上様を不憫に思い、長局の段ではお初と尾上様の仲の良さにほっこりしました。

そして、尾上様の遺書をお初が読んでからの場面を、私は忘れることができません。

まるで人形が生きているように遣われ、慌てふためいて駆け戻るお初。

観客の不安を煽るように、激しくかき鳴らされる三味線。

部屋に戻り、尾上様の遺体にすがりついて泣くお初。

「遅かった・・・遅かった・・・!!」と全身全霊を込めて語る太夫。

その全てがガッチリとはまり、私は嗚咽を漏らしそうになるほど泣きました。

クライマックスまで目を見開いて観賞し、終演後には「2回目いつ観に行こう」とすぐにスケジュール帳を開いていました。

 

そうして観た、2回目。

物語はわかっていたので、1回目観劇時はつけていたイヤホンガイド(わかりにくい単語や設定、文楽豆知識を解説してくれます)を外し、集中して観ていました。

そこで脳内に流れてきたのが、それぞれの語り、台詞の現代語訳でした。

同時に、「これを声優さん方が演じたらどんな感じになるだろう」「もっと多くの人に作品を知ってもらいたい」と思いました。

ぼんやり思ったその考えを実行に移すきっかけになったのが、令和4年2月に行われる東京文楽公演の演目が『加賀見山旧錦絵』に決まったことでした。

「これは今やるしかあるまい・・・!」と使命感に燃え、企画を立ち上げた、という訳です。

 

●脚本について

脚本は原作の台本(床本【ゆかほん】と言います。文楽公演でパンフレットを買うと一緒についてきます)を参考にして、まずプロットを考えました。

元々のお話はとても長い段からできていて、その中でも見せ場となる「草履打の段」~「奥庭の段」が、現代では多く上演されています。

なので、この段をベースにして、この段の前に1つ「奥御殿の段」を脚色として付け加えました。

後に続く段が映えるように、お初と同僚達の関係性、お初と尾上様、そして敵となる岩藤と女中達の様子を描いています。

 

その後、台詞を書いていきましたが、いやー難しくも楽しい作業でした。

床本の原文を参考に、わかりやすく、現代の価値観で、かつ耳でちゃんと聞けるように、脚本を書いていきました。

例えば

【例】①草履打ちの段より岩藤の台詞

※「ヽ」「/\」は繰り返し記号です。

「ヲヽ何ぢゃ泣かしゃるか、ヲヽ口惜しかろ、町人の娘でも今では武家の御奉公人、ヲヽ口惜しかろヲヽ道理ぢゃ/\、ヤ最前も仰しゃるには心づかぬ事あらば御指南頼むと云はしゃんしたの、ムヽ、ドレ教へてやろ」

 ↓

「あぁ、町人の娘でも今は武家のご奉公人ですから、悔しいでしょうね。そうだ、至らないところがあればご指導くださいと言っていましたね。では、遠慮無く・・・っ!」

 

②長局の段よりお初の台詞

「エヽ死なしたり遅かった/\/\わいのう、いま一足早くばナこの御最期はさせませぬ、コレ申し尾上様、々々々、旦那様」

 ↓

「う・・・うっ・・・遅かった・・・遅かった・・・!うわぁああああ・・・!あと少し・・・あと少し早ければ・・・!こんな・・・ご最期だなんて・・・!!尾上様、尾上さまぁああ・・・!!」

 

という具合です。

個人的には岩藤の嫌味な台詞の数々を書き下すのが、とっても楽しかったです。

「ちょこざいな下司女郎」→「生意気な下等女郎」とか。

岩藤さん大分ネチネチネチネチ言っておられましたが、私のせいじゃありません。原作からあんな感じなので仕方が無いです。

原文に関しては、興味がある方はこちらのページなどで読んでみてください。

 

「現代の価値観で聞けるように」という点では、台詞の自然さと古典ならではの言い回しのバランスに気をつけました。

お初とお梅・おみつの会話は、会社の新人社員と先輩のようなイメージで。

岩藤とお雪・お琴の会話は、「こういうお局様と取り巻きいるわ~」と共感を呼ぶイメージで。

その自然な言い回しに、ちょこちょこと古典ならではの言い回しや言葉を紛れ込ませています。

 

ただお初と尾上様に関しては、私ならではの価値観を含めました。

個人的にはお初から尾上様に対しては、敬愛を超えた、恋愛にも近い感情を抱いていてもおかしくないと思っていたので、そのニュアンスで書いています。

主であり、母のような、姉のような、憧れの女性。

ちなみに、尾上様が亡くなられた際に回想として入る、お初が初めて尾上様に会った時の台詞などは私の脚色です。

2回目の舞台を観ている際に「これ絶対お初ちゃんの脳内に、初めてお勤めに来た時の記憶とか蘇ってるわ・・・(涙)」と思ったので。

 

 なお、お初が部屋に戻った時には既に尾上様は息絶えていた、という部分も原作に沿っており、ここが私のお気に入りポイントでもあります。

尾上様に少しでも息が残っており、最期の言葉を振り絞りお初に託す・・・ということもできたはずですが、原作者は尾上様に何も語らせず、ただ密書だけを残させました。

私はそこが好きだったので、そのままボイスドラマでも表現しました。

文楽で観ていると、少しでも動きがある人形は人形遣いさんが「遣う」のですが、この時の尾上様の人形は、ただそこに人形が横たわっているだけでした。

人形遣いさんが動かさない人形は、文字通り、死んでいました。

ここが文楽のおもしろいところでもあります。

ドラマや映画ですと、死んでいる演技に死人を使うことはできず、生きている俳優が「死」を演じる、という図になります。

ですが文楽だと、人形を人形遣いが遣う、というスタイルが「現実」になり、人形遣いが人形から離れた瞬間、人形はただの木の塊になります。

それは本当の「死」です。

そんな文楽での「死」を描いた舞台を観ていると、「生と死は紙一重で、水面に浮かんでいるものがフッと沈むだけなのかもしれない」なんて思うのでした。

 

あと脚色したことの1つに、安田庄司殿のことがあります。

原文の「草履打ちの段~奥庭の段」でも、このボイスドラマでも、安田庄司はラストシーンしか登場しません。

そして、おいしい所を持って行きます。

ただ原文ですと、登場までに安田庄司の記述がほぼ無く、実際演目を観ていても「誰やねん」となってしまった記憶があるので、今回は弾正に安田庄司を敵視する台詞を入れ、台詞内ではちょこちょこ出てくる名前、という風にしました。

 

また、要所要所に、語り手が原文を読む、という所を入れました。

元々が浄瑠璃作品、太夫が語るもの、という文楽へのリスペクトでもありますが、ただ純粋に、原文がかっこいいし、語呂がいい!

(余談ですが、有名な浄瑠璃作家・近松門左衛門はあえて語呂を悪くして印象づけるという手法をとっています)

「明日は我が身も消えてゆく」とか、「錦と替わる麻の布」とか、「主は消ゆれど名は朽ちぬ」とか!!あー!!日本語って何て美しいんでしょう!!

こういう語りの部分は、他はほぼカットしてしまったので、もしご興味がある方は実際の舞台をご覧下さいませ。

 

脚本に書き起こしつつ常々思っていましたが、やっぱり時代を超えて人々の心を動かすのは「普遍」なものなんだなと。

敬愛する人を失った悲しみ、絶望、怒り・・・それは何百年経とうと変わることはありません。

私が文楽を観ながらいつもホッとするのは、それがあるからでしょう。

これからも、追っていきたいなと再確認しました。

 

脚本に関する裏話はこんな感じです。

長々と書いてしまいましたが、お読みいただきありがとうございました。

次は演者様・スタッフ様について語ろうと思います。