「あんた、せっかく帰ってきたんやけん、おじいちゃんとこ行って来んかいよ」
盆休みで三ヶ月ぶりに帰省した私に、台所で皿洗いをしていた母が言った。あぁ、やっぱりそう来たか。心地よいリビングソファに身体を沈ませたまま、目を閉じてため息をつく。
「五月に行って会うたやん。ゴールデンウィーク」
「あれから三ヶ月も経っとんよ。明日向こう戻るんやろ、今日行っといで」
「母さんは?」
「私は今日用事あるけん行けんのよ。それに仕事の合間に行きよるし。あんたは滅多に帰って来んのやけん、顔ぐらい見せてきなさい」
「最後の日の昼下がりぐらいゆっくりさせてや」
「香奈」
目を開けると、母が皿を置いてこちらを向いていた。私が駄々をこねた時の、いつもの顔だ。こんな時、自分はまだまだ子供なのだと実感する。
高校卒業後、こんな田舎にいられるかと大学進学を理由に地元を出た。そのまま向こうで就職が決まり、晴れてこの春から社会人となった現在も、母にとって私は「子供」だ。心の奥でもやもやと渦巻くものを感じて、目を逸らす。
「おじいちゃん、あんたが就職決まったって聞いて相当喜んでくれたんよ。戻って来んのは寂しがっとったけどね。仕事の話もしてあげたら安心するわ」
もやもやが、チクチクに変わった。
この実家という唯一現実逃避できる場所で、一番聞きたくない言葉だった。
就職活動をしていた頃は、自分も人並みに理想の社会人像を思い描いていたし、そうなれると信じていた。だが、社会の歯車となって四ヶ月――目の前のことを必死にこなしている内に、ただただ日々は過ぎていった。今は、社会人誰もが持っているであろう感情に振り回され続けている。「しんどい」「忙しい」「早く帰りたい」「人間関係って面倒臭い」・・・並べてしまえばありきたりで、平凡な気持ち。それが煙草の煙のように自分を覆っていて、過ぎていく時間を早めているようだった。
母はもう一度呼びかけてきた。
「ねぇ、香奈」
「そんな言えるような話ないよ、あたし」
「じゃあ顔見せるだけでええけん」
「・・・っていうか、じいちゃん」
小声になった言葉の続きは、電話の着信音にかき消された。
「はい藤田です!・・・あらお久しぶりですー!」
母は明るく電話に出ながら、「とにかく行って来い」と顔で語る。私は重い腰を上げ、先ほどかき消された言葉の続きを心の中で呟いた。
じいちゃん、行ってもすぐ忘れるやん。
ジリジリと照りつける太陽。空は、ただでさえ気の進まない私の心中を嘲るように澄み切っている。施設への道を車で進みながら、地元の町並みに目を向けた。高校卒業時以来、この町はほとんど何も変わっていない。家や店舗の隙間を埋める田んぼ、井戸端会議をする母親達、犬の散歩をする老人、バイクで颯爽と走り去る郵便配達員。その背中を見て、郵便局に勤めていたらしい祖父を思う。とは言え、祖母や母から聞いただけだったし、今となっては祖父が働いている姿など想像もつかない。祖父もああして、バイクに乗っていたのだろうか。ヘルメットを被り、郵便物を届ける使命感と共に。
三ヶ月ぶりに訪れた施設もまた、以前と何ら変わっていなかった。三階建ての、殺風景な建物。ただ、事務員の制服が夏服になっている。制服は自分の職場の方がかわいいな、などとどうでもいいことを考えながらエレベーターで階を上がる。
「あ、面会ですか?どうぞ」
階の玄関から出ようとしていた男性職員が、鍵を開けておいてくれた。活発で、いかにも体育会系といった雰囲気を纏っている。
「ありがとうございます」
「いえいえ。伊藤さーん、面会の方来られてますんでー!」
男性が叫ぶと、どこかの居室から「はーい」と声が聞こえた。
「また職員来ますんで、ちょっと待ってて下さいね」
男性職員は玄関の鍵を閉め、エレベーターで下りていった。私は玄関の鍵を何となく複雑な気分で見つめ、反対の方角に向き直る。
――あぁ、別世界だ。
未だに、この高齢者施設特有の空気感には慣れない。車椅子の老人数人がテーブルに座り、無表情でテレビを見ていたり、黙々と塗り絵をしていたり、ブツブツと独り言を呟いていたりする。その間にブザーのような音が鳴り、職員が慌ただしく部屋やトイレを行き交っている。まだ数えるほどしか来たことが無いが、来る度同じ様子で、来る度「別世界だ」と思う。テーブルに座った老人達は、私の目には違う世界の人に見えた。否、自分が「人」と思えているかも危うい。もしかしたら自分は知らず知らずのうちにこの人達を「そういう生物」として見てしまっているのでは無いだろうか。一瞬そんな考えが浮かび、ゾッとして頭を振った。
と、四十代ぐらいの女性職員(この人が伊藤さんだろう)がゴム手袋を外しながらこちらに小走りでやって来た。額には汗が滲み、この仕事のハードさを物語っている。
「遅くなりました!面会ですよね、ありがとうございます。えーと、どちらさまの・・・」
「あ、藤田の孫です」
なぜか小声になる自分に疑問を持つ。
「あぁ、藤田さんの!今お部屋で休まれてます、こちらへどうぞ」
ベッドと、クローゼットと、タンスと少しの小物が置かれた簡素な部屋。ベッド横には、祖父が普段使っている車椅子が置かれてある。何度か案内されたことのある部屋に、祖父はいた。ベッドに横になり、寝ているようだった。薄い頭髪に、皺だらけの顔。あまり変わっていないようでもあるし、少し痩せたような気もする。伊藤さんが、そっと祖父に近寄って声をかける。
「藤田さん、お孫さんが来られてますよ」
祖父はうーんと眉間に皺を寄せたあと、ゆっくりと目を開いて私を見た。夢をずっと見ているような、ふわふわした目つきをしている。
「えっと・・・誰じゃったかいの」
「香奈よ、じいちゃん」
「あぁ、ほうじゃったか」
「良かったねぇ、藤田さん。ゆっくり話して下さいね」
伊藤さんは私の横にパイプ椅子を置き、礼をして出て行った。
「大きなったの。何年ぶりじゃろか」
たるんだ口元を少しほころばせて、祖父は笑う。何本か抜けたままの歯が、ちらりと見えた。
「じいちゃん、五月にも来たよ。母さんと父さんと一緒に」
「ほうじゃったかいの」
「ほうよ。キウイとみかん持って来たがね」
「今日は・・・あー・・・和恵は来んのんか」
「母さん?今日は用事あるんやって」
「美和子はおらんのかいの、お茶でも汲んでもらおう思うたのに」
「・・・ばあちゃんは今はおらんよ」
「ほうか、仕方ない。・・・香奈は何年生になったんぞ」
「じいちゃん、あたしもう二十二よ。学生やないよ」
「ほうだったか。じゃあもう働きよんか」
「四月から働きよるよ、会社の事務じゃ。五月にも言うたよ」
「ほうかー、仕事決まったんかー、良かったのう」
初めて聞いたように、嬉しそうに頷いた。
「美和子はおらんのかいの」
――あぁ、まただ。
祖父は八十六歳で、認知症を患っている。昔のことは覚えていても、ついさっきのことや、短期間の記憶が思い出せない。覚えてもいられない。以前から少しずつ少しずつ忘れっぽくなっていたのだが、三年前に実家の階段で転んで骨折、車椅子で生活することになってから一気に認知症が進んだ。記憶障害はもちろんのこと、全体的に無気力で眠りがちになり、所々で介助が必要な身体になっていった。介護認定というものを受けて要介護いくつという判定をしてもらったのだが、私はよく分からなかったし、あまり興味も無かったので覚えていない。
そしてその認知症は、つきっきりで介護していた祖母が一年前に病死してから更に進み、私の両親は祖父をこの施設に入れた。生活全般に介助が必要な祖父を、共働きの両親が介護することは難しいという結論に至ったからだった。
祖母の闘病期間は短く、「ぽっくり」逝った印象だった。それでも最期まで祖父を心配し、「あの人を残しては逝けん」と呟いていた。
祖父は祖母が亡くなったことを、恐らく未だに理解できていない。祖母の生きている時間で、時が止まっているのだ。かと思えば、滅多に訪れない私のような者は、顔を見せねば忘れられてしまう。まだ存在自体を忘れられた訳ではないから、少し安心はしているが。
「ばあちゃんは、今はおらんよ」
「ほうか、残念じゃ。どこ行っとんじゃろか」
祖母は死んだと、この一年間幾度と伝えてはきたのだが、祖父は「ほうだったかいの」と答えるばかりで、数分後には同じ質問を繰り返す。だから最近家族は皆、祖母が生きている風に答えることが多くなった。
「買い物行っとんやないかな」
「ほうか、じゃあ待っとこうかのう」
「うん、そうしい」
また、少しだけ口元が緩んだ。目を閉じ、少しだけうとうとする。
「・・・・・・」
沈黙が続く。
何を言ってもすぐ忘れる祖父に、私は何を言えばいいのだろう。きっと何を話しても、数分後には忘れている。ましてや次に来た時に覚えているはずも無い。私の存在自体を覚えているかすら危ういところだ。
祖父は思い出したように呟いた。
「学校は楽しいか」
祖父の中で、私は今何歳ぐらいなのだろう。
「学校やないよ、じいちゃん。もう社会人よ。一人暮らしもしよる」
「あぁ、ほうか。もう自分で稼ぎよんか、すごいのう」
五月にも何度となくしたこのやりとりを、初めてのように喜んでする。
「で、何歳になったんかいの」
「二十二。さっきも言うた」
「ほうか、ほうか。一人暮らしして、自分で稼いで、立派になった。ええ娘になった」
何がそんなに嬉しいのか、私の顔を見つめながらうんうんと頷く。皺だらけの顔が、更に皺だらけになった。
体の奥で、また何か黒いもやもやしたものが渦巻く。一瞬、祖父の顔を張り倒したい衝動に駆られた。
何笑ってるんだ、何言っても覚えてないくせに。ちょっとしたら忘れるくせに。こんな鍵かけなきゃいけない所入れられて、どんどん分かんなくなっていって。ばあちゃんのことも忘れて、あたしのこともいつか忘れるんだ、香奈って言っても分かんなくなる日が来るんだ。それにどこが「ええ娘」だ。地元捨てて、滅多に帰って来なくて、たまに帰って来ても甘えてばっかで、そのくせ会社じゃ全然使い物にならなくて、上司に頭ばっか下げて、毎日毎日人の顔色伺って、でも同期は成長していってて、あたしは置いて行かれて、一人暮らしも寂しくて、ただ毎日会社とアパート往復してるだけの奴で、
「香奈ちゃん?」
目頭に込み上げてくるものを感じて、私は部屋を飛び出した。
「あ、お帰りです・・・っ?どうしたんですか?」
伊藤さんが、私の顔を見てぎょっとした。
「・・・いや、すいません、ちょっと・・・お手洗いお借りできますか?」
こんな顔で外に出るのは嫌だった。伊藤さんに案内された手洗い場で、顔を洗う。手で乱暴に瞼を擦り、無理矢理涙を止めた。
顔を拭き、目の前の鏡を見つめる。赤くなった瞼に、ため息が出た。心の整理をつけようと思ったが、消化できそうにない。
とにかくもう帰ろう。職員の方にこんな顔まで見せてしまって、恥ずかしい。祖父とは中途半端になったが、どうせすぐ忘れるのだから問題ないだろう。そう思いながらトイレを出ると、伊藤さんが笑顔で手招きした。
「まだお時間あるようだったら、コーヒーでも一杯どうですか」
テーブルには老人が一人だけ座っていて、その横で伊藤さんは洗濯物を畳んでいる。伊藤さんの向かいの席には、既に湯気の立ち上るコーヒーが用意されていた。
「え、でもそんな・・・悪いです」
「その顔で外、出たくないんやない?」
図星だった。
葛藤の末、伊藤さんの隣に座った。
「・・・いただきます」
「はいどうぞー」
マグカップを持ち上げ、コーヒーを一口すする。随分お腹に物を入れていないような、不思議な感覚を覚えた。
「・・・藤田さんの、お孫さんでしたっけ?名前は?」
「香奈です。・・・あ、敬語とかいいです、年下だし」
「ありがとう。ちなみに何歳?」
「二十二です」
「おぉー、若いね!そんな頃が懐かしいわ。まぁ、ゆっくりして行き」
伊藤さんは微笑み、何も言わず作業に戻った。
私の目は、その隣の老人に移った。
小柄で、車椅子に乗り、無表情で洗濯物を触っているお婆さん。私の視線に気づいた伊藤さんが、そのお婆さんに声をかける。
「キヨさん、こちらねぇ、藤田さんのお孫さんやって。香奈ちゃんって言うんやって」
キヨさんは何も言わない。ただ伊藤さんの目を見ている。
「二十二歳やって。キヨさんのお孫さんと一緒ぐらいやない?」
伊藤さんがにっこり微笑む。すると、キヨさんの口元が少しだけ緩んだ。キヨさんの視線が、こちらへ向く。少し怯んだ私を、伊藤さんが笑う。
「そなに怯えられん、優しいおばあちゃんやけん。ほら、挨拶したげて」
「えっ?」
「挨拶はコミュニケーションの基本、やろ?」
自分でも何に戸惑ったのかもよく分からなかったが、すうと息を吸い込み、目の前の小柄なキヨさんというお婆さんに、声をかけた。
「えーと、キヨさん?・・こんにちは。えと、藤田達郎の孫の、藤田香奈です。・・・・・よろしくお願いします」
こんなに緊張したのも久しぶりだった。キヨさんはじっと私の目を見て、少しだけ表情を和らげたように見えた。
「あっ・・・」
「ほら、ちょっと笑った」
ほうと息をついて、椅子の背もたれに少し寄りかかる。伊藤さんは洗濯物を畳みながら、キヨさんに時々話しかけていた。キヨさんは一言も喋らないし、話を理解できているかも分からない。それでもさっき、キヨさんは私に少しだけ、心を開いてくれたように思えた。
「あっ、キヨさんそれちょっと待って!」
キヨさんが、伊藤さんが畳んだ洗濯物の山を切り崩しにかかっていた。「ありゃー」と伊藤さんは首をすくめて山を直し、他の山のタオルをキヨさんに渡す。
「キヨさん、こっちは畳めた方の山やけん、手伝ってくれるんやったらこっちのタオルお願いしていい?」
キヨさんはタオルを触り始めた。どう見ても畳めてはいないが、ちょこちょこと触っている。
「一緒に畳んでくれようとしたんやろね。働き者のおばあちゃんやったけん」
働き者のおばあちゃん。
その言葉と目の前のキヨさんが、まだうまく繋がらない。
私はコーヒーをまた一口すすりながら、聞きたかった言葉を口にした。
「あの・・・キヨさんも、認知症なんですか」
「ほうよ。ここの人は大体認知症持っとるよ」
当たり前のように言う伊藤さんに、少しだけショックを受けた。
「認知症言うても色々よ。すぐ忘れるとか同じこと言う以外にも、鬱になったり、無いもんが見えたり、夜中に歩き回ったり。身体に影響が出て来る人もおる。ほんまに人それぞれ」
「・・・そうなんですか」
「まぁ、元々人間言うたら人それぞれ、十人十色やろ。性格も経歴も仕事も。やけん、症状がみんなバラバラなんは当たり前よね」
「・・・・・」
自分は、祖父という一人の例でしか「認知症」を知らないということを思い知らされる。
――元々十人十色な人間だから、症状も十人十色。
私はもう一度、タオルを畳もうとしているキヨさんを見つめた。
そうか、キヨさんも、娘さんだったんだよな。
全ての人にそうであるように、キヨさんにも、今まで生きてきた歴史がある。生まれて、家族と過ごして、きっと戦争も経験したであろう少女時代があって、どこかの家へ嫁いで、自分の家族を作って、生きていくために仕事をして、子供が結婚して、孫が生まれて。
そう、祖父と同じように。
元気だった頃の祖父を思い出し、私が俯いていると、ふと頭に触れるものがあった。
キヨさんの手だった。
キヨさんの手が、私の頭を触っていた。
その表情は何も語ってはいなかったが、キヨさんの感情を理解するのには充分な行動だった。
私は顔を上げて、キヨさんの手をとった。節々が少し骨張った、小さな手。じんわりと温かで、キヨさんの心を伝えているようだった。
「ありがとう、キヨさん」
キヨさんの口元が、少し緩んだように見えた。伊藤さんが、作業の手を止めて私達を見つめる。
「こういう、何か『繋がった』時がね、嬉しいんよ」
「『繋がった』・・・?」
「キヨさんは今のことをもう数分後には覚えてないかもしれんし、毎日の中で、自分が何やったか分からん時もあるやろね。けど、一秒一秒、一瞬一瞬生きとる。正直私らより、『今』ってのを大事にしとる気がするわ」
「・・・・・・・」
「でね、時々『繋がる』んよ。あたしはそれを、ずっと覚えとる」
伊藤さんは、柔らかい笑みをたたえていた。今まで『繋がった』瞬間を、1つ1つ思い出すように。
(でも、だとしたら)
だとしたら、伊藤さんはその瞬間のために、他の時間を我慢しているのだろうか。忘れられても、辛いことがあっても。
私の顔を見て悟ったように、伊藤さんは笑った。
「確かに『繋がる』ことって少ない。難しい人もおるし、毎回忘れられて悲しい時もある。それでもね、多分、思い出せんだけなんよ。全部思い出として心に残っとんやけど、頭が思い出せんだけ。やけん、無駄なことなんか何一つ無いんよ」
伊藤さんの微笑みを見つめ、私はテーブルの下で拳を握りしめた。
ノックをして、もう一度祖父の部屋に入る。祖父は静かな寝息をたてていた。改めて見ると祖父の部屋は、それほど簡素でもなかった。飾られた家族写真、分厚いアルバム、どうやら誕生日に職員さんが作ってくれたらしいバースデーカード。その1つ1つに、祖父への愛がこめられていた。
アルバムには、施設で撮った祖父の写真。お花見、盆踊り、お菓子作り、カラオケ、コーラス鑑賞・・・祖父が生きた『今』が、そこには切り取られていた。
祖父は恐らくこれらの体験を、何も覚えて・・・いや、『思い出せない』だろう。それでもいい、と笑った伊藤さんが目に浮かぶ。私はそっと祖父に近付き、声をかける。
「じいちゃん、香奈よ」
眉間に皺を寄せ、祖父の目が開く。数十秒ほどぽかんと私を見つめ、にっこり笑った。
「おぉ、香奈ちゃんかい。久しぶりじゃ。元気だったか」
「うん、元気にしとるよ。じいちゃんも元気にしとる?」
「元気じゃ元気じゃ。ピンピンしとる。あー・・・香奈ちゃん今何年生だったかいね」
またか、と思う。それでも、何だかおかしくて、自然に笑顔と言葉が出た。
「じいちゃん、うちもう二十二じゃ。大学出てねぇ、都会で働きよんよ。社会人一年目じゃ」
「えっ、もうそんなかいね?ほうかほうか・・・」
「ほうよ。・・・・・・」
沈黙が続く。
自分の中の黒い不安を、一気に喋ってしまいたい衝動がかけめぐる。今にも言葉が、喉を突き破って出てきそうだった。祖父はどう思うだろう、何と言うだろう。すぐ忘れるだろうけど、それでも。
口を開きかけた瞬間だった。
「あせったら、いかんぞ」
思考が、止まった。
祖父は、まっすぐ私を見据えていた。
冷たい手で、両の頬をそっと触られたような、そんな感覚だった。
何が起こったのか分からず呆然としていると、また祖父はトロンとした目つきに戻り、目を閉じた。
今、何て?
あせったら、いかん
何を思う暇も無く、視界が歪んだ。ぎゅっと捕まれた心臓から涙腺まで、神経が繋がっているかのようだった。溢れる濁流を抑えられず、嗚咽が漏れた。
「どうしたんぞ、香奈ちゃん」
祖父がびっくりしたように起きた。目をしばたかせながら私を見ている。何も言えなかった。止まらない涙を拭っていると、布団の外に出していた祖父の手が動いた。私は無意識に、その手をとった。ごつごつした、豆がいっぱいできた手。四十年間自転車やバイクのハンドルを握り、雨の日も風の日も、毎日毎日郵便物を届けていた手。私を抱き上げ、撫でてくれた手。おもちゃで遊んでくれた手。
祖父は何も言わず、ただ手を握っていた。
「――ああ、一年目言うたらそんなもんじゃ。できんで当たり前よ」
「ありがとう。じいちゃんも一年目はヘトヘトやった?」
「あぁ、いきなり知らん地区任されてなぁ、もう何度道に迷ったか知らんわ」
「嘘ぉ、じいちゃんが?」
「ほうじゃ。でもその度に、地域の人らが助けてくれてなぁ・・・」
ぽつりぽつりと職場でのことを話す私に、祖父は遠い昔の引き出しを開けながら懐かしそうに語ってくれた。八十年生きて四十年勤めた祖父からしたら、私の悩みなんて本当にちっぽけなものだろう。それでも、根気強く聞いてくれた。そりゃあこんなに長く生きていたら、記憶を溜める脳もいっぱいいっぱいだろう。もしかすると認知症というものは、「お疲れ様。そろそろ頭だけでも休めんかい」という身体からのメッセージなのかもしれない。
「じいちゃん、ほな、また来るけんね」
「おぉ、いつでもおいで」
祖父の顔は、今までで一番嬉しそうに見えた。
次に来た時、恐らく祖父は今日のことを覚えていない。「この前話したことなんだけど」と切り出しても、「何だったかいね」と言うのだろう。『それでも、いい。』と口の中で呟いてみる。いいんだ。いいんだよ。覚えていないなら、何回だって話そう。何度だって伝えよう。その度、きっと祖父は初めて知った顔をする。それを楽しむのも、良いかもしれない。
「もう、ええの?」
洗剤の補充をしていた伊藤さんが、声をかけてくれる。
「はい。また来ます」
「またどうぞ」
広間を横切る際、テーブルのご老人達が目に入った。それぞれの方に職員が、声をかけている。
「好きな歌手は出ましたか?楽しみじゃねぇ」
「あらー、うまいこと塗れましたね!部屋に飾りましょや」
「楽しそうじゃねぇ、今日は誰とお話しよるんですか」
もう、ここは『別世界』ではなかった。祖父が暮らす、家だった。
伊藤さんが、玄関の鍵を開けてくれる。
「祖父をよろしくお願いします」
「はい、お任せ下さい」
すうと息を吸い込み、頭を下げる。
「・・・伊藤さん、ありがとうございました」
ぽかんとした顔をしていた伊藤さんが、くっくっと笑った。
「いえいえ。香奈ちゃん、またね」
「はい!」
胸がいっぱいになって、私は振り返らずに施設を後にした。
ありがとう、じいちゃん。私も、毎日をただ過ごすのではなく、『今』を一生懸命生きよう。そしてまた、会いに来よう。きっと今日のことは、引き出しの奥にしまわれてしまうのだろうけど。たとえ祖父が思い出せなくても、私は覚えている。あなたの手のぬくもりも、言葉の鋭さも、笑顔のあたたかさも。覚えている。覚えているからね。
外は快晴。澄み切った青空は、今の私にはぴったりだ。
うだる暑さに逆らうように、大きく背伸びをした。
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